伊藤計劃を振り返るー虐殺器官の映画公開を目の前に

先に結論から述べておくと、僕は Project Itoh の劇場アニメ化を快く思っていない

死後に話題を引っ張るにしても、円城塔さんが引き継いで完成させた「屍者の帝国」出版で終われば綺麗だったと思う。

もっとも屍者の帝国に関しても、あくまで円城塔の作品であって伊藤計劃の作品ではなかった、と言うのが僕の感想だった(円城塔作品はそれ以前にも読んだ経験があった)。

伊藤計劃作品の思い出

これから懐古厨然として偉そうなことを述べるのだが、申し訳ないことに僕が知ったきっかけは「メタルギアソリッド ピースウォーカー」のEDでのメッセージだから、作品を読ませていただいたのは伊藤計劃さんの死後のことだ。

EDで突然見知らぬ人名が飛び出てきたことに、これは一体どう言う意味なんだ?と疑問を抱かずにはいられなかった僕は早速Google先生に教えを請うた。

刹那、僕は伊藤計劃の生涯にとてつもない感銘を受けて本屋に駆け込んだ、わけではなくぼんやりと興味を持った程度だった。

存在を知ってから書籍を購入するまでの時間に多少ギャップはあったが、小説らしい小説を読んだことがなかったはずの僕が何気なく虐殺器官とハーモニーのハヤカワ文庫版を2冊まとめて購入した。

衝撃だった

SFとしての完成度の高さに??作品の崇高なメッセージ性に??

否、単純にエンターテイメントとしてのバランスが凄く良くて純粋に面白かったからだ

もしかしてSF小説って全てこんなに面白いのか、と勘違いした僕は同じくハヤカワ文庫から出版されていた冲方さんや円城さん等の作品も同時期に読んだ。

ハーモニーがフィリップ・K・ディック賞を受賞したことから、アンドロイドは電気羊の夢を見るか?も読んだ。

もちろん面白かった本も沢山あるけど、伊藤計劃さんの作品ほどバランス良く読みやすくてSFらしいこともしている作品には出会えなかった。

要するに、めっちゃ読みやすくて面白いエンターテイメント小説

頭の悪い僕にとってみれば、これが伊藤計劃の作品についてを表す全てだ。

ゼロ年代SF作家として取り沙汰される

この辺りから伊藤計劃の存在について雲行きが怪しくなってくる

ただし、この時期は知る人ぞ知るSF界隈での話題だった気がする。

もちろん真に死を惜しむ人達が大勢いたと思う、かく言う僕だってこれ以上作品を読めないのが残念だった。

どうなってほしかったか??

読み手としては、一刻も早く伊藤計劃に負けない誰かの作品を読ませてほしかった

伊藤計劃を神格化して引っ張り続けることに意味はない

才能を惜しむ声、とあわよくばその流れに乗っかって元に売り上げをあげる思惑が少し垣間見える嫌な雰囲気が伊藤計劃作品の周囲に漂ってきた。

円城塔屍者の帝国伊藤計劃の存在を終わらせたかった

のだと僕は勝手に思っている。不快に感じる人がいたらごめんなさい。

同時期にデビューして、交遊もあった円城塔さんが遺稿を引き継いで完結させる。

遺稿である屍者の帝国と言う一小説を完結させると共に、伊藤計劃と言う作家の存在を完結させる

なんて綺麗な物語ではないだろうか。

そしてノイタミナによる劇場アニメ化、 Project Itoh が始まる

あまつさえ PSYCHO-PASS を使ってますます伊藤計劃の存在を神格化するような宣伝も行いながら

もちろん、屍者の帝国の劇場アニメ化にあたって円城さん自身それなりに関わりを持っただろうし、コメントも寄せられている。

project-itoh.com

しかし、コメント内容からはやや皮肉めいた印象もうかがえる。

映画版は映画版として、伊藤計劃の残したわずかな原稿からまた新たに、オリジナルの作品を展開してもらうのが最善だとは思ったが、人の世には叶うことと叶わないことがある。

こんなコメントもある。

物語の一生は、一つの作品が多くの人々の手に渡り、姿を変えていく間だけには留まらない。それを読み、観て、聞いた人々の考え方や感じ方を変え、その人の中に溶け込んでいく。あなたの体に溶け込んだ物語がいつか、あるいは何世代かを経て伝えられた印象が、また誰か別の人の手になる一つの作品として世にその姿を現す。その物語は、先祖の一人のことなど覚えていないかも知れず、判断がつく者だってもういないかも知れないが、でもだからどうだというのか。そこではとにかく、何かが生きているのだ。

伊藤計劃の存在は、十分すぎるほど世に評価されて知れ渡っていた。

いまさら Project Itoh なんて仰々しく名前を付けて、劇場アニメ化で知名度をあげることに意味はないし、なんだかズルい方法だ。尊重と崇拝は違う

伊藤計劃の作品としてではなく、一つの作品として勝負してほしかった

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